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イディオ・サヴァン(=白痴の天才)
2005/12/24 土曜日 16:34:29 | エッセイ — By ebifly
おまいらもどうでもいいことならたくさん覚えていたりするわけですか?ニヤニヤ。
X51.ORG : 九千冊の本を暗記する男 ― サヴァン症候群とは
http://x51.org/x/05/12/1952.php
賢者、知識人、或いは天才といった知的な意味を持つこの言葉が、奇妙な症候群の名として、初めて報告されたのは1887年のことである。命名者のJ.ランドン・ダウン博士は、その報告の中で、かの膨大な「ローマ帝国衰亡史(エドワード・ギボン)」を一字一句違わずに諳んじ、更には全く逆から読んで見せる常軌を逸した記憶力を持つ男の話を、驚きと共に記している。そしてダウン博士は、これらの人々 ― 特に子供に多い事を博士は指摘している ― が、ある部分において常人には及びがたい才能を発揮しながら、一方で、共通して何らかの精神的、知的障害を抱えていたことから、こうした特徴を持つ希有な人々を、「イディオ・サヴァン(=白痴の天才)」と呼んだのである。そして現在でも、一般に「サヴァン※」と呼ばれる人々は、自閉症や、発達遅延といった何らかの障害を抱えているにも関わらず、同時にある特定の分野 ― 例えば音楽、芸術、数学 ― において、まるで常人の理解を超えた驚異的才能を示すことで知られている。
要するに驚異的な記憶力や他の能力を持ってはいるがそれが全く活用できないような精神的あるいは知的障害を抱えているわけです。逆に言うと、これは身近にそういう人物がいればすぐにわかるのだけれど、ある一定の範囲を超えた能力を持っている人間はそれと同様に、精神的に偏っている。天才と狂気は紙一重というか表裏一体というわけだ。上記のようなサヴァン症候群についてNASAとかいろいろな機関が興味を持って調べてはいるが、その結論は「使われていないから他のことに使うことができる」というものに集約される。以下、そのことを説明してみようと思う。
まず、人間のそもそも持っている能力値の総合限界が100として、この100をあたかもRPGの各パラメータに配分するかのごとく割り振ることができるとしよう。この感覚はたいていの人間が持っているはずだし、この理屈には根拠がある。時間だ。各自の才能や能力を伸ばすために必ず努力をするという前提があれば、時間が絶対的に必要なのは自明の理。だが費やすことができる時間には制限があるため、すべての能力値がたとえMAXまで伸ばすことができるとしても、必要な時間をそれぞれに最低限必要なだけ配分しなくてはならない。だから自然と「総合限界」というのが発生してしまう。有り体に言えば育成シミュレーションで一番有名なプリンセスメーカーあたりをやってみれば実感できるはず。能力を上げようと思ってそれぞれをまんべんなく上げていくと結局は凡人になる。何かのスペシャリストにするために特化させれば大きな穴ができるが、ある特定のジャンルにはたどり着ける、と。あの種類のゲームにまとわりつく異様なまでの「親近感」シミュレーションはおそらく、あれらの育成にまつわる様々な行為のその根本、時間の配分の仕方がその後の能力を決めるというある種の真理があるためだろう。
サヴァン症候群に話を戻すと、彼らはいわゆる「白痴」だ。白痴というのは何かというと、総合的な判断および体系付けをすることができない状態であり、それが理性・知性・感性の全てに及んでいるような場合のことだ。彼らの場合はそういうそもそも本来であれば日常の生活によって、生活する時間そのものによって配分される総合限界の範疇にある時間を、それ以外のものに使うことができ、さらにそれが根本的な部分、脳内の能力自体にまで及んでいると推察できる。知っての通り、人間社会で生きていくために最低限必要なある種の「作法」やストレス耐性を持つためには色々なことを知って実行し、TPOに応じて使い分けていく必要がある。これはかなり高度な社会適合性の表れであり、これが他の動物と人間とを隔てる絶対的な差となっている。日常のあらゆる平凡な行為の数々は実際にはかなり高度な精神性やその他の能力の発言の上に成り立っており、だからこそ脳もそのような能力を伸ばす方向に発達すると考えられる。
では、サヴァン症候群のような驚異的な記憶力や芸術に関する才能が存在することと普通の人々にはそれが存在しないこと、その結論が「使われていないから他のことに使うことができる」というのは具体的にどのようなことを指しているのかと言えば、まさにこの日常の使い方にあると考えられる。精神的あるいは知的障害を持っている全員がサヴァン症候群になるわけではないし、サヴァン症候群になるための共通の原因が存在するわけでもない。つまり、精神的あるいは知的障害を持っている人の全員がある種の天才ではない。彼らもまた一般人と同じように「何に時間を割いているのか」という差がそれらのことにおいてのみ発現している状態であると考えることができる。記憶力の場合、一般人であれば会得するはずのことを会得しないのでその分だけ空きがあり、余裕がある。だからこそその分を他の能力に回すことができる。脳自体が「空いている」と考えることもできる。本来であれば日常生活を送るために必要な能力として機能する脳の部分をほかのことのために使用しているのだ。これは誰でも理解できる概念だと思う。だがこれは裏を返せば、そうでない人間、つまり一般人、日常生活を問題なく送ることができる人間は「日常生活を問題なく送る」能力のために脳を使っており、だからこそサヴァン症候群のような能力を得ることは、絶対にない。よく言われるような「使われていない脳の部分」というのが存在しないためだ。既に使われている。これが各個人の持つ「総合限界」の正体であると考えられる。問題なく日常を過ごす人間はそれと引き替えに、他の能力が出る芽がそもそもないのだ。
「使われていないから他のことに使うことができる」ということは直感的に理解できるし、ある程度の説得力をも持つ理屈でもあるのだが、かなり残酷な側面を持っていることもまた、容易に理解できると思う。世界中の偉人の伝記を読めばわかるが、歴史に名を残すほどの人間は例外なく一風変わっている。普通の人間は歴史に名を残さない。また、目立つ人間や能力を持つ人間はその能力がずば抜けていればいるほど、他のどこかが欠けている。だからこそ、パーフェクトな人間というものに人間はあこがれるし、パッと見たときに完璧のように見える人間に対して一種の憧れや嫉妬を抱くのだ。そして、そういう完璧に見える人間が別の面ではそうでないことを知って「ほっ」とする。サヴァン症候群の特徴である記憶力にしても、「もしあれだけの記憶力があれば人生が変わっていた」と思い、いいなぁと思ったとしても、それは今の自分にその記憶力がプラスアルファされると考えるからであり、脳の物理的容量に限界があるように、その付加される能力にもやはり限界が物理的、そして時間的にも存在しているのだ。このトレードオフの関係はサヴァン症候群でも存在する。実際のサヴァン症候群の例として有名なナディアという女の子の場合、芸大の試験でも余裕で通るほどの描画能力、芸術、特に美術の才能を持っていたが、特殊学級に入れられて、言葉を学習するとともに、その突出した美術の描画才能は失われていった。サヴァン症候群といえども、やはり総合限界は存在しているのだ。ナディアの場合、日常生活に必要不可欠な言語を会得することで、美術の能力が失われた。何かを得ると言うことが何かを失うことと直結する場合、総合限界、持って生まれた容量というものの限界を超えることができないでいることになる。これに例外は今のところ、ない。
この限界を突破することは今までの理屈で言えば不可能だ。「使われていないから他のことに使うことができる」のだから、既に使われている場合には、何かを捨て去る必要がある。そしてまた、捨て去ったところで必ず得られるとも限らない。最初からそのために使われていない部分を使うことでしか、得られないのだ。これが子どもの頃はすぐにできるようになったのに、成長するにつれて新しい能力を獲得しづらくなることの原因なのだろう。子どもの頃、一体何に時間を費やしたのか、何を成すべきためにどのようなことをしてきたのか?その積み重ねが今の自分を形作っているのだ。だから、今の自分自身はそれまでの自分、特に幼年期の頃のそういう未来への自覚が、大きく左右しているのだと思う。これは、何年先の自分自身を想定して生きているかという差でもある。そんなことを想定して生きている人間など、特に子どもの頃、それも幼ければ幼いほどそんなことは考えないと思われる。だからこそ、親や教師といった他の大人たちが代わりに考え、代わりに道を指し示さなくてはならない、はずなのだが、現実で考えれば、大人というのは単に成長し、「使われていないから他のことに使うことができる」状態ではなくなって使い切った状態に到達しているだけなので、十分なことは何もしてやれない、という場合が多いわけだ。小さい頃からそのジャンルに特定して周囲の人間がしかるべき環境を作れば能力が伸びていくというのは、音楽のジャンルでははっきりと現れている。音楽は素養よりもいかに小さい頃から英才教育を施してきたか?それが才能以前の問題として存在している。小さい頃からいわゆる修行をしなければ、本来持っている才能分の伸びを見せることもない。成長して遅くから始めても同様にのびている人間も確かに存在する。だが、もしもっともっと以前から始めていれば?さらに以前からそういうことに能力を使っていれば、今以上の能力を会得できたはずだ。選択の時というのが存在するのであれば、それは将来のいつかという時点ではなく、既に大部分の人間が通り過ぎた幼いときにあったはずなのだ。
私の場合は、幼稚園に行っている頃には既に上記のようなことを考えていた。早熟な子どもであったことは確かだが、それ以上に、本来持っているはずの能力が自分から欠落していると考えていたのも上記のような考えに至る原因となっている。普通の人間が普通にこなしていることを自分がすることはできないという現実は、そのど真ん中にいる本人にとっては、年齢に関係なく自覚できるものだ。だから私は今も、できない者を責める気にはなれないし、責めるべきではないと考えている。できないものはできないのだ。それをある程度できるようにするために費やす時間や労力とトレードして、それらは本当に会得するに値するのか?というのを考えなくてはならない。
さらに補足するならば、結果が同じでもそれを得るために費やすものは必ずしも各個人で同じではない、ということだ。10分でマスターする人もいれば、10日かかる人もいる。サヴァン症候群のように一瞬で記憶する人間から、一生かかっても記憶できない人間まで、パターンは様々だ。それらは持って生まれた「使われていないから他のことに使うことができる」能力、いわば初期値に左右される。最初から10ある人間とまったくないゼロの人間とが、結論や結果として同じことをしていたとして、さらに途中でも同じように伸びていくとしても、スタート地点が違えばゴールまでの時間には差が出てくる。費やす時間の絶対限界が各個人で分かれるのはこのためだ。これを「才能」という。
才能というのは、単にこの初期値があるかどうか?その差でしかない。決して伸びる幅のことではないと私は考えている。もう伸びなくなるのは、総合限界に達しているためだ。この論で行くと、先ほど述べたような「既に持っている分を捨てる」ことができれば余裕ができ、その分だけ他の能力を伸ばすことができる。おそらくこれは事実だろう。忘れるという現象は常にこの余裕分を確保するための機能だと考えられる。応用力のようなものだ。特化することを阻む代わりに、一時的にではあっても必要な能力を確保するための機能なのだ。体系づけた知識などを維持するためには維持するための能力が必要であり、維持することを放棄すれば忘れることになり、忘れるとその分を他のものに使うことができる、というわけだ。
ここで混同しがちなのが、サヴァン症候群の記憶力は忘れないことによって起きているのではなく、言語を覚えている、あるいは視覚で捉えた情報を覚えているだけ、ということだ。混同しがちだが、能力と記憶とは別のものだ。サヴァン症候群の能力で一番特徴的な記憶力はそれ自体が能力であり、その能力があるから記憶できているだけなのだ。一般人は記憶するだけではなく、さらにそれを体系づける能力も必要になっている。記憶する能力が限定されているため、忘れるという能力によって記憶する部分を適時確保して、記憶の優先度を決めているのだ。忘れると困ること、それは日常生活の作法や習慣、使っている言語そのものであり、それらを忘れると「白痴」になる。だがそれらがないがゆえにサヴァン症候群の人々は余った部分を記憶する能力として、そして記憶する倉庫として使われていない部分を使っているのだ。
では、「使われていないから他のことに使うことができる」というこの残酷な現実を突破する方法はないのか?つまり、後天的にさらにこの「使われていない」部分を作り出すことはできるのか?サヴァン症候群のような記憶力や能力を持つことはできるのか?それは可能なはずだ。それが文明であると思う。持って生まれた能力以外のことを可能にするのが道具であり、文明と呼ばれるものであるはずだ。技術はそれを可能にする。脳の中に全てをとどめることができなくてもメモすればいいし、そうすれば必要なのはただ一つ、必要なときにメモを見る能力だけになる。記憶する部分を外部に任せることができるのだ。人間の高等生物である理由は「使われていないから他のことに使うことができる」という限界を突破している点にある。逆に言えば、「使われていないから他のことに使うことができる」限界を突破しない者は人間らしくない。総合限界をした上で、それ以上のことをしない人間は動物でしかない。人間らしさというのはこの一点に集約される。
今、この「使われていないから他のことに使うことができる」限界を突破する方法において全く違う側面でのアプローチが出現し始めている。私がインターネットに惹かれた理由もそこにある。インターネットというものの存在を知ったとき、これだ、と直感した。上記に書いているようなことを小さい頃から感じていて、実際の体験として知っている者としては、ネットの可能性というのはかくも魅力的に映った。これは限界を超えるためのツールだということがわかった。パソコンとネットは限界を超える道具として今まで人間が作り出してきたあらゆる道具の中で、その極致に達している道具のひとつだ。先ほど書いた「メモ」の超拡大版だ。使いこなすスキルがあれば、あとはどうとでもなる。個人の持つ総合限界を超えることはできないが、仮想的に拡張することはできる。代わりに覚えさせることも、代わりにさせることも可能だ。テクノロジーはそのために存在する。自分の果たせなかったことを果たすため、使ってしまった部分を他のことに使うために、これらのスキルは存在する。
そしてもう一つの注目すべき「使われていないから他のことに使うことができる」限界を突破する方法がある。すなわち、脳自体の拡張、記憶する外部チップの作成だ。脳の機能を補完するため、実際に脳と連携する外部記憶野というものの研究は現実に実行されており、10年以内に臨床試験が開始される予定となっている。
記憶障害を救う、シリコンチップの人工海馬
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20041026301.html
南カリフォルニア大学(USC)神経工学センターの所長を務めるセオドア・W・バーガー教授は、海馬(記憶をつかさどることで知られる脳の部位)の働きを模倣する埋め込み型のシリコンチップ(イメージ)を開発している。成功すれば、この人工海馬が本物の海馬の代わりを務め、記憶障害に苦しむ人々が新しい記憶を蓄積する能力を取り戻せるようになるかもしれない。
人工海馬の登場はもはや、「仮定」の話ではなく「時間」の問題になっている。USCのほか、ケンタッキー大学、ウェイク・フォレスト大学など、複数の研究室における6つの研究チームが、10年近く前から、さまざまな部位の人工神経の開発に共同で取り組んできた。サンディエゴで23日(米国時間)から開催される北米神経科学会の年次総会では、こうした研究の成果が発表される予定だ。
生きたラットではまだ試されていないが、ラットの脳のスライス(薄片)を使った研究では、このチップは95%の精度で機能した。これは、科学界を沸き返らせるに十分な成果だ。
新しい長期記憶を作るというのは、たとえば、初めて会った人の顔を覚えて認識したり、電話番号や見知らぬ場所への道順を覚えたり、といったことだろう。これが成功するかどうかは、海馬が正しく機能するかどうかにかかっている。海馬は長期記憶を蓄積しないが、海馬が短期記憶を再符合化することで、短期記憶を長期記憶として蓄積することが可能になる。
このことについては2005年11月5日放送のNHKスペシャルで特集された中の最後の方に実際に出てきている。これは記憶に関するものだが、記憶以外、すなわち人体自体の拡張も可能になる。
脳とコンピューターを直結するインターフェースが現実に
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20040116301.html
脳とコンピューターを直結、考えるだけで車椅子を操れる新インターフェース
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20030801301.html
視力回復に向けて開発が進む「バイオニック・アイ」
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20030722301.html
こういった技術をさらにネットに関連づけさせるとこういうことになる。
インターネット上で触覚を共有できる『ハプティック技術』
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20030704301.html
インターネットでやりとりできる感覚は触覚だけではない。嗅覚も、さまざまなにおいを発する化学物質の混合物を使う機器によって伝達可能だ。味覚も同様に伝達できそうだということは、人間の味覚受容器が苦味、甘味、酸味、塩味、旨味の5種類を感知するものに分類可能なことを考えれば、予想がつくだろう。
二極化する社会というのは既にアメリカがたどっており、日本も追随している。また、デジタルディバイドはさらにこの二極化の進行と同時に飛躍的に進んでいく。その結果、こういった人体拡張技術も、脳の記憶野を拡大する技術も、手術を受けるための「金」が必要になってくる。金持ちの家に生まれれば、英才教育の延長線上として、こういった拡張手術を生まれながらにして受けることも可能だろう。スタート地点における差異どころか、さらに拡張される部分においてもさらなる差異が生まれる可能性が大きい。
だが、上記の技術が可能になるということはすなわち、「使われていないから他のことに使うことができる」という限界を超えて、使われた部分を使うことなく新しく拡張して使うことで能力を補完していくことができることにつながる。また逆に、まだ総合限界に達していないのに外部拡張によって労せずして能力を得ることにもつながる。そして、ものすごく皮肉なことだが、能力や素質、才能、総合限界を超えていない状態で、総合限界以上の能力を会得すると言うことはまさに、イディオ・サヴァン(=白痴の天才)を生み出す、というわけだ。
Topics: エッセイ |
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